当然ながら、国久は身に覚えがある訳もなく、伪の密书だと主张。
あまりにも见え透いた离间工作に尼子家中も概ね、国久に同情的だった。
しかし、更なる取り调べの结果、国久の嫡男?诚久が毛利元就に宛てた书状が発见される。
その笔迹が间违いなく诚久のものであったことから、风向きが変わり、新宫党は言い逃れできない状况へと追い込まれていった。
国久は身の洁白を主张し続けた。
その信念は、文字通り巌のような体躯の通り、决して揺るがないように见えた。
しかし、そんな国久に比べ、诚久の主张は歯切れが悪く、洁白を証明するには至らなかった。
しかも、新宫党内部からも二人を告発する者が现れる。
それはなんと、诚久の嫡男である氏久であった。
将来の新宫党継承者たる氏久の告発は、国久や诚久に止めを刺すのに十分すぎるものであった。
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この告発に対し、晴久の动きは速かった。
新宫党に同情する者が现れ、かつての塩冶兴久の反乱の时のように家中が二つに割れてしまう事を恐れたのだ。
まず登城途中だった国久を暗杀。
さらに电撃的に新宫谷を急袭した。
诚久の弟である豊久、敬久ら新宫党の主だった干部は弁明の机会すら与えられずに自害させられた。
诚久に至っては自害すら许されず、大西十兵卫、立原备前守の両名によって文字通り八つ裂きにされた。
さらに10代だった诚久の次男?吉久、四男?常久、六男?通久らが粛清され、三男の季久は行方不明となる。
生き延びたのは、诚久の嫡男で、父と祖父を告発した氏久と五男の胜久だけである。
新宫党は氏久が継承し、胜久は京に上り、东福寺の僧となった。
***
新宫党粛清に先立つ事半年、毛利元就は1554年5月に盟友だった陶晴贤と决别している。
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世にいう、「防芸引分」である。
翌1555年には厳岛の戦いが起こる。
毛利元就は仅か5千の兵力で3万の大军を率いる陶晴贤军に対し、奇袭攻撃を敢行。
これを撃破する大胜利を挙げる。
败れた陶晴贤は自刃に追いやられる事となった。
新宫党が粛清されたことにより、尼子氏の军事力は大きく减退した。
尼子晴久は祖父に比べて凡将という评判に反して、厳岛の戦いに胜利して势いに乗る毛利军と石见国忍原で戦い、大胜を遂げるなど、尼子氏の全盛期を筑くに至る。
とはいえ、新宫党なき今、积极的に远征を行う力はなく、领土を守るので精一杯だった。
1557年には大内氏最后の当主?大内义长が自害に追い込まれ、旧大内领の大半が毛利领となり、毛利による尼子への圧力は强まる一方となる。
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